日曜のあしあと 12月9日

最終更新: 2018年12月28日

この日は降誕前第3=待降節(アドベント)第2の主日ということで、教会学校礼拝も聖日礼拝(アドベント第2主日礼拝)も、アドベントのろうそくに2本火が灯りました。


どちらも、そして今週も

♪主を待ち望むアドヴェント〜と歌いながら、火をつけましたよ。


聖日礼拝後はいつものように交わりの会が行われ、みんなで楽しく過ごしました。


交わりの会後は、クリスマス礼拝で演奏するトーンチャイムの練習♪


そして、それぞれに、午後3時からの教区准允・按手礼式が行われる大阪城北教会へ車に乗り合わせて向かいました。

当教会の咸伝道師が「准允」を受けることができました。感謝です。



聖日礼拝説教より

『失われない神の思い』

聖書:イザヤ書55章1~11節

 

 イスラエルの民が経験したBC6世紀のバビロン捕囚は、神への信仰を見失うほど貧しく厳しいものがありました。そんな民に、第2イザヤは「渇いているはみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者もさあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。…」(新改訳聖書より)と。それはどういう意味でしょうか。

 本当に飢えを満たし魂に命をもたらすものは神のもとにあり、それは富裕層のように代価を支払えば手に入るものとは次元が違います。神はそれを、ご自分を犠牲にしてまでも全ての人に分け与えたいと思っておられました。救い主誕生はそんな思いが目に見える形で実現したことを物語っています。そして、この思いはむなしく神のもとに戻ることは決してなく、いつも人間の思いを超えてご自分の思いを実行されるのです。

 救い主は不衛生な家畜小屋の中で生まれました。この世に神が来てくださったのにその幼子は家畜の餌箱に寝かせられました。約30年後、罪の悔い改めを必要とする人たちと共に水の中に沈み、辺境の地で暮らす貧しい人たちと共に生き、社会の外に置かれた人たちを訪ね、そして人間の闇が覆う中で十字架の上で死なれ、高く挙げられました。神の思いの高さは低さに現れる、それは神から見放されたと思う悲しみや苦しみの中にも神は共にいてくださる、ということなのです。

(平松牧師)

日本キリスト教団 八尾東教会

〒581-0831 大阪府八尾市山本町北7丁目8−2

Tel&Fax 072−922−6677

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